足立区の歴史|足立区を対象にした足立区専門のポスティング

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足立区の歴史

原始・古代

足立区に人が住み始めたのは、今から約1700年位前からといわれています。足立区は群馬、栃木、埼玉の山々から利根川、渡良瀬川、荒川、などによって大雨が降るたびに、土や砂、小さな石が流されてきて積み重なり、だんだんと陸地になってきたのです。それは、何千、何万年もの長い時間がかかって出来てきたのです。北から西にかけて、花畑、伊興、舎人、という埼玉県と境になっている(毛長川)という川に沿って土地の標高が高くなっています。それらの所には、人々が生活に使っていた,いろいろな道具が土の中から出土されています。

奈良・平安時代

天平七年(735)に足立から奈良の都へ「はすの実」を送ったと書かれている、「木簡(もっかん)」という、薄い木で出来たものが出土され、その土地で収穫した産物を、国の中心である奈良の都へ届けるように約束していたと思われます。はすの実は「薬」として使われていたと考えられ、「送る物の名前や目方、日時、」などを書いて中の様子がわかるようにしたものを「木簡(もっかん)」と呼んでいました。遠く離れた、足立から奈良までどのように運ばれたのかは不明ですが、船により太平洋沿岸を回っていったか、馬の背に揺られて行ったか。今から、1300年以上も前から、足立と奈良との間で物流が行われていたという事も大変興味深いものです。

鎌倉・室町・戦国時代

今から、900年以上前、源 頼義、義家、義光一行は、京都から東北に向かう途中に足立を通り、戦が無事に成功するよう、神仏にお祈りしたといわれます。いわれのある土地をたどると、道が一本につながっていて、古くから東北へ向かう道が足立区を通っていたことがわかります。源 頼義、義家、義光、親子が自分達の目印の「白幡」を立てた、という伊興の「白幡塚」現在は公園として自由に見学できます。

江戸時代

「千住大橋の架橋」、「千住宿の制定」、そして「綾瀬川の改修と見沼代用水の整備」が行われた江戸時代、足立が大きく変ぼうを遂げた時代でもあります。時の将軍徳川家康は江戸を水害から守る為に、関東地方の川の流れを変え、綾瀬川を修復、利根川から水を引き、足立や埼玉県の田畑の質の向上に成功します。そして千住大橋を架け、「藩」という国の間を行き来しやすくなった為、江戸は爆発的に人口が増えます。千住には江戸へ出す野菜の市場が出来、足立の人たちは、野菜を市場に届けました。葦で覆われた土地も、耕した人が使える権利を与えた為、皆が懸命に湿地を田畑に変えて行ったと言われています。

明治・大正

鎖国から開国し、足立区にも開国の余波が訪れます。隅田川に沿ってレンガ、鉄鋼、皮革などの工場が出来、電気を起こす発電所も建設されました。学校も出来、子供達に勉強を教え、道路も次々に建設されていきました。1894年に鉄道が敷かれ北千住駅が出来、長年水害に苦しめられていた荒川にも荒川放水路を建設し人々の命と財産を守っていきました。大正十ニ年の関東大震災による東京市内からの被災者の人口流入、昭和三年に市電が千住五丁目まで延ばされたことにより、東京市内に通勤するサラリーマンなど、急激に足立の人口が増えていきました。

昭和

昭和にはいると、次第に工場で働く人や物の売り買いをする人が増え、足立区でもあちこちに工場建設され、田畑が次々に埋め立てられ、工場や、住宅が建てられ、大きな団地ができ、マンションも建てられてます。都内では地下鉄が作られ、交通が便が良くなり、人口が爆発的に増加します。環状七号線が開通、高速道路、東北自動車道、常磐自動車道が都心とつながり、トラックターミナルなどの大きな施設が「入谷」に建設され、工場や、商店の人は流通の発達により活性化していきます。

足立区の成立

昭和7年10月、市域拡張によりもとの南足立郡(10カ町村)を一つの区として足立区が誕生しました。境界変更などを経て、昭和22年地方自治法の制定により、現在の足立区となりました。

(足立区資料提供)

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